松村一登訳 © Kazuto Matsumura 1993, 2001 (Japanese translation)

フィンランド史概観

スウェーデン領時代

12世紀の中ごろまで,今日フィンランドと呼ばれている地域では政治的な真空状態が続き,西からはスウェーデンとカトリック教会が,東からはノブゴロド(ロシア)とギリシア正教会が,食指を動かしていました。優位に立ったのはスウェーデンで,1323年にノブゴロドとの間で結んだ講和条約では,ノブゴロド側に与えられたのは,フィンランドの東部地方だけでした。こうして,フィンランドの西部地方と南部地方は,スウェーデン領となることによって,西ヨーロッパ文化圏に組み込まれましたが,フィンランド東部のカレリアは,ロシア・ビザンチン世界に属することになりました。

スウェーデン領となった結果,フィンランドにはスウェーデンの法組織や社会体制が根づくことになります。この体制は,封建制ではありませんでしたから,フィンランドの農民は農奴とならずに,個人としての自由を保持しました。フィンランドの中心は,13世紀半ばに町として興ったトゥルクで,ここに司教職が置かれました。1362年,フィンランドは,スウェーデン国王の選出に代表者を送る権利を得ますが,16世紀には,さらにスウェーデン議会に代表者を送ることができるようになりました。

16世紀にルターによって始められた宗教改革の波は,スウェーデンとフィンランドにも押し寄せ,カトリック教はルター派新教にとって代わられました。宗教改革はまた,フィンランド語文化の高揚をもたらします。1548年には,トゥルク主教ミカエル・アグリコラ(1510-1557)によって,新約聖書のフィンランド語訳が完成します。アグリコラは,フィンランドに宗教改革をもたらし,フィンランド語の書きことばを作った人物です。聖書のフィンランド語の全訳が完成したのは,1642年でした。

スウェーデンは,その全盛期(1617-1721)には,バルト海全域に勢力を拡大し,ロシアの弱体化を利用して,フィンランド方面の国境もさらに東に移動させました。ストックホルムにおける政治体制が確立するにともなって,17世紀には,スウェーデンにおけるものとまったく同じ統治形態がフィンランドにも適用されることになります。フィンランドでは,スウェーデン人が高官に任命されることが多く,フィンランドにおけるスウェーデン語の地位が強まりました。

ロシアの大公国時代(1809-1917)

18世紀に入り,スウェーデンの国力が弱まるとともに,ロシアは,フィンランドに対する影響力を強め,1808年から1809年にかけてのスウェーデンとの戦争で,フィンランドを占領しました。

スウェーデン領時代のフィンランドは,小さな県がいくつかあったにすぎず,国としてのまとまりはありませんでした。フィンランドは,当時この地域全体の首都であったストックホルムから統治されていたのです。しかし,1809年にロシア領になるとともに,フィンランドは,自治権をもつ大公国となりました。ロシア皇帝がフィンランド大公となり,そのフィンランドにおける代理人として,フィンランド総督がおかれました。

フィンランドの最高行政機関(政府)は,フィンランド人のみから構成されるセナート (Senat) でした。首都ペテルブルクでは,フィンランド事務大臣がフィンランドに関連する事項を皇帝に進言しました。したがって,フィンランドの行政は,皇帝が自ら行うことになり,ロシアの役人はフィンランドの国内政治に介入することができませんでした。

1809年から1825年までフィンランド大公をつとめたロシアの啓蒙君主アレクサンドル1世は,フィンランドに大幅な自治権を与えました。このときフィンランドは,事実上の国家としての形態を整えたといっていいでしょう。ルーテル派教会のフィンランドにおけるこれまでの地位は保持され,また,フィンランドの公用語としてのスウェーデン語の地位もそのままでした。1812年,ヘルシンキがフィンランドの首都になると,1640年の創立以来トゥルクにあった大学も,1828年にはヘルシンキに移されることになります。

フィンランドの民族的な運動が盛んになるのも,この時代です。1835年には,エリアス・レンルートによって,フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』が出版されます。セナートに属し,アレクサンドル2世の統治時代(1855-1881)にヘルシンキ大学の教授をつとめたJ・V・スネルマン(1806-1881)は,フィンランド語の地位向上のために力を尽くし,フィンランド語は,スウェーデン語と並んで,フィンランドの公用語と認められることになります。

1863年にアレクサンドル2世によって発布された言語令によって,フィンランド語は,公式に行政の場で用いられる言語への道を歩み始めます。スウェーデン語を母語とするのは,フィンランドの総人口の7分の1に過ぎませんでしたが,スウェーデン語の支配的な地位は,20世紀の初頭まで維持されました。

1863年,半世紀以上も開かれなかったフィンランド議会が召集されました。これ以後,議会は定期的に開かれ,フィンランドにおける活発な立法活動が展開されます。1878年の徴兵法により,フィンランドは独自の軍隊を持つことになりました。

アレクサンドル3世(1881-1894)や,とりわけニコライ2世(1894-1917)の時代になると,ロシアの民族主義が台頭してきます。大ロシア賛美主義者たちにとって,特別な地位を享受しているフィンランド大公国は,目障りな存在でした。独自の政府としてのセナートをもち,独自の議会をもち,独自の役人,法律,軍隊,通貨(マルカ),切手を持つフィンランドは,いわば国家の中の国家のようなものですし,あまつさえ,フィンランドは,ロシア帝国との間に公式の国境まで持っていたのです。

「フィンランド分離主義」の除去,すなわちいわゆるロシア化政策は,1899年から1905年にかけて(第1次ロシア化政策時代)と1909年から1917年にかけて(第2次ロシア化政策時代)の2回試みられました。ロシアにおける1905年の革命は,フィンランドのロシア化政策に小休止をもたらし,1906年には,これまでの身分制議会に代わって,新しい議会が成立します。この議会改革は,当時のヨーロッパではもっとも急進的なもので,フィンランドは,4つの身分からなる身分制議会から,一気に普通選挙に基づく一院制の議会に移行しました。フィンランドの女性は,ヨーロッパで最初に,議会選挙での選挙権を得ました。

独立共和国時代

1917年12月6日,P・E・スヴィンヒューヴド(1861-1944)の率いるセナートが起草した独立宣言が,議会で承認されました。

このころになると,国内の左派と右派の政治的対立は,もはや妥協が不可能な段階にまで達していました。1918年の1月末,左派の企てたクーデターのため,政府がヘルシンキを逃れ,続いて起こった内戦は,5月に,グスタフ・マンネルヘイム将軍(1867-1951)の率いる政府軍が勝利するまで続きます。結局,フィンランドは1919年の夏に共和国となり,K・J・ストールベリ(1865-1952)が最初の共和国大統領に選ばれました。

独立した共和国となったフィンランドは,1920年代に飛躍的に発展します。内戦の後遺症を和らげる目的で,政府に社会民主党員を招き入れるなどの和解策がとられました。社会民主党は1926年から1927年にかけて,独自の少数派内閣を作ります。1929年には,イタリアのファシズムに影響されて生まれたラプア運動が,共産党活動の禁止を要求しますが,1930年代の「共産党関係諸立法」によって,共産党は実際に活動停止に追い込まれました。1932年には,ラプア運動が反政府の武力蜂起を企てますが,失敗します。

フィンランドは,最初,エストニア,ラトビア,リトアニア,ポーランドとの協力関係に基づいた外交政策をとっていましたが,1920年代にはすでに,国際連盟がフィンランドの安全保障政策の基盤となっていました。1930年代になって,国際連盟が世界平和を守ることができないことがはっきりすると,フィンランドの議会は北欧諸国寄りの政策を承認しました。

1939年8月,ドイツとソビエト連邦と不可侵条約を締結しますが,その条約の秘密議定書は,フィンランドがソビエト連邦の利害の及ぶ範囲に属するものとしました。フィンランドの領土内への軍事基地の建設を要求して拒否されると,ソビエト連邦は1932年の不可侵条約を破棄して,1939年11月30日,フィンランドへ侵攻します。こうして始まった冬戦争(第1次フィン・ソ戦争)は,1940年3月12日のモスクワでの講和条約によって終結しますが,このとき,フィンランドの南東部(カレリア地方)がソビエト連邦に割譲されました。

1941年の夏,ドイツがソビエト連邦に侵攻すると,フィンランドはドイツの盟友として参戦します。こうして始められた「継続戦争」(第2次フィン・ソ戦争)は,1944年9月に停戦協定が結ばれるまで続けられました。停戦協定で,フィンランドは,すでに冬戦争の時に割譲したカレリア地方の他に,北極海沿岸のペッツァモをソビエト連邦に割譲しなければなりませんでした。この停戦協定の内容は,1947年のパリ講和条約において承認されました。

戦争が終結に近づきつつあった頃,マンネルヘイム元帥が大統領に選出されました。次いで1946年に大統領になったJ・K・パーシキヴィ(1870-1956)は,ソビエト連邦との関係の改善に努力します。1948年,ソビエト連邦との間に「友好協力相互援助条約」が締結され,この条約が後に「パーシキヴィ路線」と呼ばれる外交政策の基礎となりました。この条約締結の後,フィンランドの国際舞台における役割が増大します。1952年にはヘルシンキでオリンピック大会が開催され,1955年には,フィンランドは国際連合への加盟を果たし,北欧会議 (Nordic Council) のメンバーにもなりました。

1956年に大統領となったウルホ・ケッコネンは,中立政策を積極的に推進し,フィンランドの外交政策における行動範囲を広げました。フィンランドが外交政策でイニシアチブを行使した典型的な例は,1975年の夏にヘルシンキで開かれた「ヨーロッパ安全協力会議」 (CSCE) です。

フィンランドを四半世紀にわたって率いてきたウルホ・ケッコネンが病気のため大統領を辞任した後,1982年からマウノ・コイヴィストが大統領をつとめています。

1945年の議会選挙では,共産党が大躍進し,政権に参加します。共産党の政権参加は,1948年の選挙に敗北して退陣を余儀なくされるまで続きました。以後,政権は,社会民主党と農民党の連立となり,これが,1958年にソビエト連邦の示した不信感により社会民主党が退陣させられるまで続きました。1966年の議会選挙では,共産党と社会民主党が躍進し,長期にわたる野党の座から,再び政権に返り咲きます。以後,およそ20年間,右派(国民連合)が野党の時代が続くことになります。

1987年の春に起こった国内政治の転回によって,保守派の国民連合と社会民主党が多数派内閣を結成し,この状態が1991年まで続きました。1991年の選挙の後は,社会民主党が野党となり,保守党と中央党(農民党の後身)が連立内閣を作っています。

セッポ・ツェッテルベリ
ヘルシンキ大学教授
1992年6月

(*) フィンランド外務省の広報文書の日本語版 「フィンランド史概観」(駐日フィンランド大使館, 1993年4月発行) のための翻訳原稿です。

更新日 2009/09/19